風鈴の金魚

2007年08月31日 18:50

 じっとりした暑さが肌に絡みつく。
 空調の利いていない部屋で汗ばんだ身体が寝返りをうった。
 床に広がった長い髪が背に引き寄せられて行く。
 サアッと風が吹いて、風鈴がチリンチリンと鳴った。
 閉じていた瞳を薄らと開く。
 窓際に吊るされた風鈴が音を立てながら揺れていた。 
 透明なガラスに描かれているのは金魚。鮮やかな色使いが夏らしい。
 懐かしくなって、と師杜(かずと)が買ってきたのが一月前のこと。
 あの頃は、外に出ると立っているのも嫌になるような暑さだった。
 それに比べると、最近は幾分涼しい風が吹くようになった。夜も少しずつ涼しくなっていっている。
 身体を起こしてカレンダーを見れば、もう八月も終わり。
 なんだ、もうそんな時期だったんだ。
 去年の今頃は、新学期の準備をしていた。夏休みの宿題をバッグに詰めて、クリーニングに出していた制服を元の位置に掛けて、始業式には必要なネクタイがあるのをチェックして。
 ああ、もう夏休みが終わっちゃうんだ。
 長い休みの名残を惜しみつつ、久々にクラスメートと会うのを楽しみにしていた。
 それは、たった一年前の話。
 今頃皆はどうしてるんだろう。
 平凡だったけど、幸せだったあの頃。
 二度と戻らないあの生活。本当ならば、自分だって今も学校に通っていたはずだったのに。
 久弥(ひさや)が壊した、そして自分から捨てることを選んだあの日々――。
 チリン
 風鈴の音が耳に入る。
 ゆっくりと振り返ると、ガラスの上を泳ぐ金魚達がクルクルと回っているのが目に入った。
 ずっと同じところを、くるくると。
 金魚はそこから抜け出すことが出来ず、クルクルと回り続ける。
 チリチリと鳴り続ける音が頭の中でいっそう強く響く。
 止まることなく回り続ける金魚から目を離すことが出来ない。
 スウ、と血の気が引いていくのを感じた。
 一度入ってしまったら、もう、出ることは出来ない――。
 耐えられなくなり、窓に走り寄り、風鈴を掴んで床に叩きつけた。
 ガシャンと音を立ててガラスが割れた。
 身を引き裂かれた金魚達を見て、ハッと息を呑む。
 胸に込みあがってきたものを喉の辺りで止め、静かに首を横に振った。 
 唯のガラスの破片になった風鈴を見ていられず、そっと部屋を出た。
 ゆっくりと階段を上がると、小さくギシギシと音が鳴った。
 自分の部屋に入り、冷房を入れる。換気の為に開けていた窓を閉め、床に座り込んだ。
 膝を抱えて、項垂れる。
 もし今、ここに峰弥(たかや)がいてくれたら――。
 そんなことを一瞬考え、フッと嗤った。
 峰弥の手を離したのは自分なのに、今更そんなことを考えるなんて。
 駄目、今日は不安定だ。
 やっぱり師杜と一緒にいれば良かった。
 自嘲的な笑みを浮かべ、瞼を下ろした。


 ただいまと言ったのに返事がなかった。
 珍しいことだと思って中に入ると、リビングは蒸し暑かった。どうやら冷房を入れてなかったらしい。
 両手いっぱいの荷物をソファに下ろし、電気をつけようとして手を止める。
 床の上に転がっているもの。
 それは原型を留めていなかったが、買ってきた師杜にはすぐに分かった。
 明かりをつけ、足元に気をつけて近づいた。
 しゃがんで割れた風鈴を見る。
 身体を引き裂かれた金魚が師杜を見ていた。絵だと分かっていても、哀しいものがある。
 でも、それ以上に師杜の胸を打ったのは、涼子の想いだった。
 手を伸ばして大きな破片に触れる。
 風鈴を割ったのは涼子だ。そして、その時の想いが伝わってくる。
 全てを読み取ることはしなかったけれど、行き場のない悲しみは嫌でも感じてしまう。
「どうした?師杜」
 先に自分の部屋に荷物を置いてきた久弥がリビングに顔を出した。しゃがんで動かない師杜を見て、近寄った。そして、そこにあるものを見て表情を変えた。
 割れた風鈴と、師杜の辛そうな顔。
 師杜が割ったとは思えない。だとすれば――。
「……涼子が……?」
 尋ねると、師杜は無言で立ち上がった。そして廊下の方へ出て行く。しかし、すぐに戻ってきた。
 その手には箒とちりとり。
「危ないから、片付けないと」
 そして、ちりとりにガラスを収めていく。
「……涼子は何も悪くない」
 ポツリと呟いた師杜に、久弥は唯頷くしか出来なかった。
 床が綺麗になったところで、師杜はちりとりを久弥に渡した。
「俺が掃除機かけるから、これを外に」
「ああ」
 久弥は言われる儘に部屋を出て行った。師杜ももう一度廊下に出て、箒を片付け、掃除機を持ってリビングに戻った。
 目に見えないガラスの破片を吸い取って、掃除機を元に戻す。
 その儘、階段を上がる。
 いつもよりも、歩みが遅いのは気の所為じゃない。
 涼子の部屋の前で小さく息を吐き、ノックをした。
 どうぞ、と声がする。
 起きていたのなら、掃除機の音も聞こえていたのだろう。
 しかし、師杜はそ知らぬふりをしてドアを開けた。
 ベッドに横になっている涼子を見つける。
「出来合いのおかず買ってきたから、夕飯にしよう」
 声を掛けると、涼子がゆっくりと振り返った。
 その瞳は腫れてはいなかったものの、生気が感じられなかった。
 涼子は返事をせずに立ち上がった。そして部屋を出る。
 階段を降りている時、ポツリと洩らした。
「わ…………ない……」
「え?」
 師杜は立ち止まって聞き返したが、涼子は首を横に振って下りていった。



 私は風鈴の金魚じゃない。

 でも、抜けられない流れに入ってしまった金魚を見ていられなかったの。

 だけど、皮肉ね。

 無理に流れを止めようとした結果、金魚は死んでしまった。

 金魚を生かそうと思ったら、流れを止めてはいけない。

 ぐるぐる、ぐるぐると。

 永遠に、回り続けるしかなくて。

 その流れから出ることは叶わない。

 永遠に。

 そう、永遠に。

義姉 3(完)

2007年08月26日 00:07

 既視感というのは正しくない。しかし、セルディーナはそれにも似た感覚に戸惑っていた。
 自分を目の前にして「子どもを助けたい」と願った義姉に、会ったことのない母の姿を重ねた。
 胸の奥で何かがザワザワと動いている。
 ミレーネは震える手でセルディーナの腕を掴み、必死の表情で見上げてくる。
 どうするべきか。
 冷静に考えろ。
 セルディーナは何度も繰り返し自分に言い聞かせて、口を開いた。
「……お気持ちはわかりました。しかし奥様、どうして私に?私はただの秘書でしかありません。奥様のご期待に添えるだけの力は持ち合わせていないかと」
「色々考えたわ!でも他に頼れる人がいないの。こっちの事情も、あの人や親戚の動きもわかる人で、策を考えて実行できるような人。昔からここに仕えてる人じゃ慣習に従えって言うのはわかってるの。だから古参は駄目。仲のいい小間使いはそんな頭はないから駄目。でもあなたなら、あの人に近くて、でもこの家にそんなに肩入れしていない。頭もいいし、仕事もできるとあの人が言っていたわ」
 だからあなたしかいないの。
 切実な瞳を向けられて、セルディーナは思いを巡らせた。
 双子を生かす。
 モンテーニュに仕える者として考えるならば、それはあってはならないことだ。慣習に従わず、忌みべき子どもを助けるなんてとんでもない。
 しかし、他でもないセルディーナが双子の消されるべき存在でありながら母と伯爵の手により生き長らえている身だ。彼らの子どもに対して複雑な思いを抱かずにいられないのも真実だ。
 同情はある。ただ、災いを背負わされる双子の片割れに対して自分を投影したりはしない。立場は同じでも、自分とこれから生まれてくる子どもは全く別のものなのだから。
 ただ、ミレーネの傍に行く機会を得るのは悪いことではない。特に今、子どもを救いたいと考えているこの時ならば、その動きを近くで把握できるのは魅力的だ。それに、上手く行けばミレーネに取り込むことができるかもしれない。
 ならば。
「わかりました。奥様がそこまでおっしゃられるのなら、出来る限りのことはさせていただきます」
「ああ、セルディーナ!」
 ありがとう。
 ミレーネの瞳に僅かに安堵の色が浮かぶ。
「取り敢えず奥様、お座り下さい。あまり興奮されてはお腹のお子様に障ります」
 セルディーナはミレーネをソファに座るように促す。彼女は「ええ……そうね」と力なくソファに腰を下ろし、体を横たえた。
「ねえ、一人は殺されなければならないの?」
 疲れの滲んだ声で尋ねるミレーネに、セルディーナは小さく頷いた。
「慣習に従うのなら、そうでなくてはなりません。双子は家に災いをもたらします。だからイエルグス様もご兄弟と一緒に育つことが許されませんでした」
「そうね。わかってる、わかってるのよ。そういうしきたりだってことくらい。でもね、気持ちがついていかないの」
「イエルグス様も同じお気持ちでしょう」
「ええ。あの人もそう言ってくれてるわ。絶対に殺させたりしないって。でも、ここ数日の来客であの人も随分参ってるみたい。来る人来る人みんな私達を否定して……だから不安になってきてしまったの」
 一番弱っているのは当主であるイエルグスということか。
 まだ今日は会っていない主の顔を思い出す。帰省前に既に疲れている様子だったのに、あれ以上疲労を重ねたとなるとどんな顔になっているのか。
「そうですね、イエルグス様が当主とはいえ、一族の方々が揃って反対しているのに無理を押し通すことは難しいでしょう」
「当主なのに?」
「当主だからです。モンテーニュを守る為に、双子は大きな弊害となる。もしかしたら一族を滅ぼすかもしれない。だから皆様は毎日のように訪れてイエルグス様を諌めているのです」
「……おかしいわ、双子だって人間なのに」
「ええ」
 そうだ、双子だって人間だ。けれど、一人は生まれながらにして一切の災いを背負わされる。そして命を奪われる。それが双子。
「あの人は……最後にはあの人達の言葉に従うのかしら」
「その可能性は高いと思われます」
 だって、彼は当主だから。
 きっぱりと告げると、ミレーネは長いため息をついた。
「……前の奥様も、きっとこんな思いをされていたんでしょうね」
「そうかもしれません」
「…………でも、私は最後まで諦めないわ。絶対に二人とも育てるの」
 そうじゃなきゃ嫌なの、と呟く彼女の眼差しは険しい。
 同じように、セルディーナも仮面の下で眉間に皺を寄せていた。
 様子を見ると伯爵には言った。
 しかし、戻ってきてすぐ新たな展開が待ち受けているとは。
 局面を見定めろ、時機を見誤るな。
 そして、自分にとって最善の道を選べ。
 勝負は既に始まっている。

義姉 2

2007年08月23日 22:02

 セルディーナがモンテーニュにやってきた時、イエルグスには既に妻がいた。
 レイトン男爵家のミレーネ。教養はあまりないが、美人の部類に入る容姿と実家の経済力が魅力的な奥方だ。
 彼女がセルディーナに声をかけることは滅多にない。できる限り得体の知れない仮面の女に干渉したくないと思うのは自然な感情だろう。セルディーナも彼女に関るつもりはなかった。だから仕事上で必要な最低限の接触しか持ってこなかった。
 それなのに、ミレーネがセルディーナを気にする発言をしたとは。
 一体何の用だろう?

 セルディーナがミレーネの部屋を訪れると、ミレーネはすぐにセルディーナを迎え入れた。顔色が酷く悪い。妊婦がこんな様子ではとセルディーナは目を瞠る。
「奥様、気分が優れないようですが、人を呼びましょうか」
 休暇前に見た時とはまるで別人だ。化粧でも隠しきれない程青白い顔。少し痩せただろうか。顔には憔悴の色がはっきりと出ている。
「いえ、いいわ」
「しかし、酷くお疲れの様子ですが」
「そんなことはいいの。それより、それよりセルディーナ……」
 ミレーネはふらふらと生気のない足取りでやってきて、縋りつくようにセルディーナの両腕を掴んだ。
「こんな時になってあなたに頼るのはおかしいとわかっているの。でも、あなたしかいないのよ」
「何のお話でしょう」
 頼る?ミレーネが、私に?
 見当がつかずに尋ねると、ミレーネは緊迫した表情で口を開いた。
「こんなこと、あなたにしか相談できないの。小間使いじゃ話にならないわ。執事やノザレじゃあの人に近すぎて不用意に話なんてできない。でもあなたなら、あの人に近くて、事情もわかっていて、でもここにきてまだ短いあなたならきっとわかってくれる。私の話を、聞いてくれると思ったの」
「そのお話とは」
「お願い、誰にも言わないで。秘密にすると誓って。お願い、お願いだから、私を助けて……!!」
 悲痛な声を挙げ、手に力がこめられる。痛みに顔を顰めそうになりながらセルディーナはミレーネの「助けて」の意味を考えようとした。しかし、その前に「お願い!」と切羽詰まった表情で迫られて、セルディーナは反射的に背を後ろに逸らした。
「約束することは出来ません。私はイエルグス様にお仕えさせていただいておりますので」
「私は彼の妻よ。あなたの主人も同じだわ」
「はい。イエルグス様に害がないようなお話であれば奥様の期待に添うこともできるかもしれません」
「ああ……!わかったわ、それでいい、それでいいから話を聞いて、セルディーナ」
 ミレーネはセルディーナの返事を待たずに、堰を切ったように喋り出した。
「チャールズ様がやってきたの。ハスティーヌ夫人も、タイラー男爵も。みんな揃って子どもを殺せと言うの。嫌よ、私は嫌。イエルグス様もそうおっしゃってくれたわ。でも、みんな認めてくれないの。そんなことは許さないって。これは慣習だからって。イエルグス様の兄弟もそうやって殺されたんだからって聞く耳を持たないの。それどころか、私のことを疫病神なんて言い出すのよ。私が双子を身籠ったからいけないんだって。子どもが出来なかった間は、役立たずと責めておいて、今度は疫病神よ、疫病神!」
「奥様……」
 ここ数日やってきた親戚は揃いも揃って彼女を責めたのか。イエルグスだけでなく、妊婦である彼女まで。
「私だって……双子と聞いた時はびっくりしたわ。恐ろしいと思った。でも、それは最初だけで。嬉しかったの、私の中に二つの命があるんだって思ったら。一度に二人の母親になれると思ったら嬉しかったの。あの人も同じように言ってくれたわ。そうよ、双子でも何でも私の子どもだもの」
 彼女の叫びに心覚えがある。
 イエルグスとセルディーナの母、アメリアがカルベス伯爵に言った言葉だ。
――どちらも私の子どもだもの。お願い、兄さん。私は……。
「私は、片方を見殺しにすることなんてできない。お願い、セルディーナ。力を貸して。どちらの子も生きていけるようにしたいの」

義姉 1

2007年08月22日 00:10

 一週間の休暇を終えてモンテーニュ子爵家に戻ってきたセルディーナを迎えたのは屋敷中の重苦しい空気だった。擦れ違う人々の表情には疲れや翳りが見えている。
 何かあったのか。
 疑りながら秘書室の扉を開けると、そこには少々やつれた秘書官長ノザレがいた。
「ただいま戻りました」
「ああ、セルディーナ。帰ってきてくれたか」
 どこか安堵した様子のノザレに、セルディーナは自分の勘が間違っていないことを確信する。
「ノザレさん、私がいない間に何かあったんですか?屋敷中暗い雰囲気に包まれていますし、ノザレさんも一週間でこんなにやつれてしまって」
 セルディーナが尋ねるとノザレは大きなため息をついた。
「そうなんだ。奥様のことを聞きつけたチャールズ様がやってきてな。旦那様と口論になったんだ。チャールズ様は慣習に従うべきだと、旦那様は従わないの一点張り。結局その場ではどうにもならなかったんだが、話を聞いた他の親族方が毎日やってきては旦那様と口喧嘩を繰り広げる始末。昨日はハスティーヌ夫人、今日はタイラー男爵だ。おかげで旦那様はピリピリしているし、奥様は気を病まれて臥せってしまわれて。明日は誰が来るのかと思うともう気が気でない。本当にいいところに帰ってきてくれたよ」
「それはまた……大変でしたね」
 うるさい親戚筋がこぞって押しかけてきたわけだ。
 チャールズは先代の弟でイエルグスの叔父に当たる。金遣いが荒く、なかなか素行のよろしくないことを理由にモンテーニュの当主になれなかった男だ。そのことを根に持ち、事ある毎にイエルグスに文句をつけてくる。今回のことでは勿論盛大に非難を浴びせに来るだろうと予想はしていたが、丁度セルディーナが不在の時だったとは。運が良かった。偶然とはいえ、なんていい時に休暇を貰ったのだろう。一方、その不幸にまともにぶつかってしまった秘書官長は見ての通りボロボロだ。
「そうそう、セルディーナ。昨夜、奥様にセルディーナはいつ戻るのかと聞かれてな」
「奥様が?」
「ああ。何か御用があるのかもしれない。後で顔を出しておきなさい」
「はい」
 ミレーネがセルディーナに?
 それは珍しい。
 しかし、上司の命令だ。時間を見て彼女を訪れよう。

君を待つ

2007年08月19日 00:07

 電車が近づいてくる音に、顔を上げる。
 携帯を見れば20時15分。
 この電車ではないな、と再び俯いて壁に寄りかかる。
 改札から少し離れた場所で、師人(かずと)はもう三十分もこうしている。
 久弥(ひさや)から電話があったのは昼。

『もしもし?師人?調子はどう?』
 明るい声から、奴の機嫌がいいことはすぐに察した。思うに、向こうはうまくいっているのだろう。そりゃそうだろう。人数が必要だったとはいえ、大人数で懐柔に当たったのだから、あの市井と言えどもこれ以上否を唱えることはできなかったに違いない。それに比べて、こちらはたった一人で頑張れと放り出されたのだ。いくら危険な相手ではないとはいえ、あの面々を説得するのは至難の業だ。
 本当は怒りたいところだが、今日は幾分疲れた。 
『それがその……』
『なるほど。分家とはいえ、頭の固い頑固爺どもはすんなり頷いてはくれないというわけか』
 その通りだ。扶川の三老人ときたら、全くもって聞く耳を持たない。それでも自分に任された仕事を全うできなかったことは反省しなければならない。
『俺の力不足です、すみません』
『謝ることはない。向こうはそれだけが取り柄の老い先短い年寄りだからね。誰が行っても同じことになっていたと思うよ。ところで、こっちはなんとかうまくいっている。山は越えたから、そっちに応援を送ることにするよ』
『誰を?』
『聞かなくてもわかっているくせに。涼子だよ。彼女のサポートがあった方が楽だろう?君達は相性もいいしね。それに、涼子なら師杜も元気が出るんじゃないかと思って』
『なっ……』
『じゃあ、夜にはそっちに着くと思うから』

 師人が赤面して何も言えないでいるのを向こうはわかっているのだろう、一方的に電話を切られてしまった。
 そして、夕方、涼子からメールが入った。
《今から新幹線に乗ります。20時38分に駅に着く予定。だからホテルに着くのは21時過ぎ頃になると思うのでよろしく》
 迎えに来い、とは言わなかった。
 寧ろ、一人でホテルまで行くことを前提にしている内容だったが、師人は涼子には何も言わずに駅まで迎えに来た。
 一時間も早く来てしまったが、少しでも涼子に会いたい、という気持ちが強かった。
 あと二十分。
 二十分すれば、彼女に会える。
 その二十分が今の自分にとってとてつもなく長いことはわかっているのだが。
 目の前を通り過ぎるカップルが妙に目に付くのが癪だ。
 制服に身を包み、手を繋ぐ男女。
 短いスカート、パーマがかかってふわふわした茶色の髪、化粧もしている。背は低い方だ。容姿だけならば普通のどこにでもいる女子高生だが、そこに浮かぶ無邪気な笑顔が、少女を幼く見せていた。
 師人は軽く眉を顰めた。
 女子高生。
 本来だったら、涼子もまだ高校に通っている年齢だったことを思い出した。
 まだ、十七歳の彼女。
 彼女もあの少女とほとんど変わらない年だということが信じられない。
 多分、見れば多くの人は涼子が女子高生だとは思わない。かと言って大人とも違う――。
 美しい涼子。
 優しい涼子。
 強いと思いきや、弱くて脆い涼子。
けれど、俺達の為に強くなった涼子。
 俺の、愛しい涼子。
 ずっと傍にいようと決めた彼女と、もう一週間も会っていない。
 電話やメールはしない。逆効果になるだけだ。
 でも、この一週間、物足りなくて。
 こういう時、自分も一人の男に過ぎないのだと実感する。
 そんなことを思わせるのは涼子唯一人。
 涼子がどれだけ特別な存在か。
 彼女はそれをわかっているのだろうか。
 電車が着く音がした。
 時間は20時28分。
 次のやつだな、と時刻表で確認する。
 あと十分。
 改札から人が降りてくる。
 目を閉じて、視界から人々の姿を消した。
 どうせ、あの中に彼女はいない。
 誰を探しているわけでもないのに、人をジロジロ見るのには抵抗があった。
 しかし、場の空気が僅かに変化したのを見逃さなかった。
 目を開くと、改札を通って自分に向かってくる女が目に付いた。
 彼女は薄らと微笑っていて。
 恐らく服が入っているのだろう、大きめの荷物を抱えて。
 予定より早く着いたんだな。
 そんなことを考えながら、自然と顔が緩むのを感じた。
 手を振ると、彼女も手を振り返した。
 彼女が俺のところに来るまであと数メートル。
 俺は待ちきれず彼女に向かって走り出した。

2007年08月17日 23:45

 悲しみが小さくなり、笑えるようになりました。

 なんて酷い人間なのだろうと。

 心の隅で思いながら。

 でも違っていたのです。

 私はいつも泣いていました。

 自分でも気づかないところで私の心は泣いていたのです。
 
 亡くした友を想いながら。

 別れた家族を想いながら。

 捨てた日々を想いながら。

 そして何より、二度と会えない貴方を想いながら。

 忘れた振りをしていても、心までは嘘をつけなかったのです。

 私が求めてやまないものたちを。

 ずっと、ずっと。

 私が一気に失ってしまったそれらを。

 顔には笑顔、心ではひゃくまんつぶの涙。

 涙が止まる日は来るのでしょうか。

 来るとしたら、それはどんな時なのでしょうか。

 沢山のものを失って得たものは、残酷な生き方。

 涙を流し続けるだけの日々の果てに、何があるのかも分からずに。

 私は唯、泣き続けています。

届かない

2007年08月15日 10:00

「嘘、でしょう……?」
 何が起きたのかよくわからない。
 腕は痛くて、手を当てるとそこからは血が流れていて。
 でも、信じたくない。
 彼が私を撃ったなんて。
 突然出された拳銃に、思わず身を捩ったけれど、弾は私の左腕に当たった。
 彼はチッと舌打ちし、「外したか」と洩らした。
「なん……で」
 どうして?
 彼が私を撃つ筈ない。
 なのに、どうして?
 戸惑う私に、彼は再び銃口を向けた。
 冷たい瞳――本気だ。
 身体が震えだす。
「どうして?ねえ、なんで?私はずっとあなたに尽くしてきた。あなたの為に働いた。私あなたのことを愛してるの。あなたの為ならなんでもする。なんでもしてきた。あなたもわかってるでしょ?」
 そうよ。
 私が今まで彼の為にどれだけのことをやってきたか。
 どれだけの人を殺してきたか。
 ありとあらゆる手段を使って。
 時には人を使って。
 時には自分の手で。
「あなたの為に邪魔者は排除してきたじゃない!それなのに、私を……こ……」
 殺すの?
 最後までは言えなかった。
 彼は無表情で私に狙いを定め、歩み寄ってきた。
 銃口が近づく。
「イヤっ!冗談はやめてよ!私まだ死にたくないっ!あなたの為なら何でもする!あなたを愛してるのよ!」
 だからお願い――。
 目に涙を浮かべて懇願する。
 すると、彼は嘲笑を浮かべた。
「俺は、嫌いだったよ?」
 その一言で身体が動かなくなった。
 目を大きく見開き、彼を見る。
 彼は笑っていた。
 悲しくて、切なくて、苦しくて、涙が零れる。
 あんなに愛してたのに。
 それすら彼には伝わらないなんて。
 ゆっくりと瞼を閉じた。
 次の瞬間、頭に銃を突きつけられ、彼が引き金を引く音が聞こえた。

2007年08月12日 23:47

『愛してる』
 その言葉に耐えられなかった。

 彼と出逢ったのは海。
 暑さで倒れた彼を看病したことから始まった。

『アルメリア』

 私を呼ぶ声はいつだって明るくて。
 私への想いがいっぱい詰まっていた。
 彼は私を愛してくれた。
 私も彼が好きだった。
 でも、それは愛ではなかった。
 私はそのことに気づけなかった――。

 いつからだったろう?
 好きなのに。
 大切なのに。
 愛されれば愛される程苦しくなって。
 いつしか彼の愛は負担でしかなくなっていた。

 そうして気づいてしまった。
 私の胸の奥にいるのが誰なのか。
 それはずっとあった罪悪感。
 それでも、その気持ちが彼を好きだと想う気持ちより強いなんて。

 なんで?
 どうして?

 一生知らなくても良かったのに。
 気づくべきではなかった。

 ああ。
 ごめんなさい。
 私はもう、貴方の傍にはいられない――。

 私から終わらせた。
 以前と同じように。
 結局、私は相手を傷つけることしかできない。
 好きだったのに。
 それでも、私の中で存在が大きいのは、彼ではなくて「彼」だから。

 いつか。
「彼」以外の人を、大切に思えるだろうか。
 本当に、純粋な気持ちで誰かを好きになれるだろうか。

 答えは、どこにもない――。

夏、喫茶店の中から眺める光景

2007年08月08日 18:02

<吉野香織&藤見忍、高3の夏>


「あー、あついなー」
「どしたよ、急に白けた声出して」
「ほら、あれ」
「あれって?……あの二人?」
「そ。コンビニから出てきた手ぇ繋いでる仲良しこよしのあの二人」
「コンビニから出てきたかどうかは知らないけど」
「出てきたの。俺、ばーっちり見てたから。出てきてすぐに手ぇ繋ぎやがったよ。先に手を伸ばしたのは女の方」
「いいじゃん、仲良しで」
「いやいや、このくそ暑いのになんだよ。俺たちの愛の方が断然暑いんで外の熱気なんか涼しいもんですアピール?けっ、自己主張が激しすぎるんだよ」
「そこまで言わなくても」
「だってさー、癪じゃん。香織ちゃんも見てて暑苦しいでしょ?」
「微笑ましくていいと思うよ」
「えー。あんなんさー、絶対つきあい始めだって。3ヶ月経ったら手も繋がなくなって、もしかしたら別れてるかもしれないのに」
「幸せそうな二人を見ながらそういう想像しないでくれるかな」
「幸せぇ?そんなん今の内だけだって。大体さ、見なよあれ。男と女が同じサイズってどうなの」
「見事に同じ目線だね」
「バランスが全然ダメ。あれは美しくない」
「いいじゃん、本人達が好きでつきあってるんだから」
「……全く、香織ちゃんは」
「なんでそこであたしが呆れられなきゃいけないかなあ」



「げ」
「今度はなに?」
「あの店の前にいる女子高生」
「はあ。お揃いで茶髪に白いエクステだね」
「なんだよあれ、ユニットでも組むのかよ」
「ユニット?」
「二人組のアイドルみたいな」
「そういう発想する?」
「なんかさー、あれだね。一緒に美容院に行ってやってもらったか、片方が最初あれにしてそれ見た片割れが『あたしもそれにするー』とか言ってやったんだな、きっと。すんげぇ無個性っぷり」
「勝手に決めつけるな。わざとお揃いにしてるとは思うけどさ」
「なんで髪型一緒にするかな?大体さ、右の方は結構似合ってるけど、左の方は絶望的に似合わないじゃん。そういうの気にしないの?」
「髪型としてはおしゃれなのにね」
「うん、でも似合ってないから最悪」
「忍……」
「あー、でもさ、右の方だって組み合わせを考えるとNGだよね。あの髪型、明らかに制服と合ってない」
「それは言える。なんか浮いてるよね」
「私服でもかなりセンスを問われるよな。まるで冒険だよ。すごいね。勇者だね、あの二人は」
「勇者とか言い出しちゃってるあんたが心配になってきたよ。猛暑にかなりやられてると見た」
「なーに言ってるの香織ちゃん。クーラーがんがんにかかってる店の中で暑いもなにもないよ」
「だったら公共の場で通りすがりの人に対して毒はくのやめて欲しいんだけど」
「毒じゃないよ、感想だよ」
「第一ね、あんたが人のことについてとやかく言うのはおかしくない?」
「え?全然」
「……言っても無駄ってことね」

エースの憂鬱

2007年08月03日 11:46

「好きです、つきあって下さい!」
「ごめん、俺、今は野球一筋だから」


 パタパタと走り去っていく後姿を見送ってため息をついた。
 なーにが野球一筋だっての。
 あー、でもこのパターンもいい加減辛いなー。
 今日の子は割とあっさり引き下がってくれたけど、しつこいのはこの程度じゃ納得してくれないし。
「そろそろ新しいフレーズ作っとかないとなあ」
 こういう課題はいらないんだけど。
 面倒くせー。
 壁に寄りかかると、「ヒロ!」と横から声が飛んできた。
 この声は。
 首を動かすと、渡り廊下から顔を覗かせて手を振っている女がいた。
「サトミ」
 いつからいたんだよ。
 今の見られてたのかな。
 もやもやとした思いを引きずりながら渡り廊下まで歩いて行けば、サトミはにやにやと笑っている。
「やめろよ、そういう顔」
「見ーちゃった」
 ……あー、やっぱり。
 でもいいか。ここからだったら話は聞こえなかったはず。特に聞かれて困るようなこともなかったけど、こういうのはなあ。
「相変わらずおもてになりますこと」
「んなことないって」
「こういう時は下手に謙遜する方がイヤミだよ。野球部の2年生ピッチャーなんだからね、世間一般ではもてて当たり前なの」
「どういう理屈だよ」
 確かに俺は野球部で2年生でピッチャーだけどさ。3年生を抑えてスタメンだけどさ。イコールもてるって違うんじゃねえ?
「だって、別にヒロって顔がいいってわけでもないじゃん」
「……お前、俺のストレートぶつけてやろうか?」
「ついでに性格もものすごくいいわけでもないしね」
 うるせえよ。
 俺の顔が平凡なのは認めるさ。でも身長はある方なんだよ。性格もものすごくいいわけじゃないけど、悪くもないんだって。そういうところもちゃんと見ろって。
「なんでヒロがもてるのかよくわかんないけど……」
 うわ、刺さった。今の一言はかなりきた。
 わかれよ。わかってくれよ。俺だって他の子が俺の何が良くて告白してきてくれるか知らねえよ。興味もねえよ。でもお前にはわかってて欲しいんだって。お前にはかっこいいって思われたいんだって。
「でも、あんなにもてるヒロがどうして誰ともつきあわないのか、そっちの方がもっとわかんない」
 …………それはつまり、俺に対してそういう目で見てないってことなんだよな。しかもこっちの努力は一向に伝わってないみたいだし。
 俺が名前で呼んでる女ってお前だけだろうが。それに、結構頻繁にメールしてるだろ?時々、一緒に遊びに行こうって誘ってんじゃん。
 なんで気づかねーの?
 すっげーへこむんだけど。
「あれ、ヒロ、どしたの?どよーんとした顔しちゃって」
 俺の顔を見たサトミが軽く驚いている。
 だからちょっとは察しろって。
「俺が彼女を作らない理由、教えてやろうか」
「え、ほんと?気になる気になる!」
 パッと目を輝かせたサトミに、俺はため息をついた。
 マジでやってらんねー。
「好きな女が全っ然こっちの気持ちに気づかないからなんだよ!」