2007年08月31日 18:50
じっとりした暑さが肌に絡みつく。
空調の利いていない部屋で汗ばんだ身体が寝返りをうった。
床に広がった長い髪が背に引き寄せられて行く。
サアッと風が吹いて、風鈴がチリンチリンと鳴った。
閉じていた瞳を薄らと開く。
窓際に吊るされた風鈴が音を立てながら揺れていた。
透明なガラスに描かれているのは金魚。鮮やかな色使いが夏らしい。
懐かしくなって、と師杜(かずと)が買ってきたのが一月前のこと。
あの頃は、外に出ると立っているのも嫌になるような暑さだった。
それに比べると、最近は幾分涼しい風が吹くようになった。夜も少しずつ涼しくなっていっている。
身体を起こしてカレンダーを見れば、もう八月も終わり。
なんだ、もうそんな時期だったんだ。
去年の今頃は、新学期の準備をしていた。夏休みの宿題をバッグに詰めて、クリーニングに出していた制服を元の位置に掛けて、始業式には必要なネクタイがあるのをチェックして。
ああ、もう夏休みが終わっちゃうんだ。
長い休みの名残を惜しみつつ、久々にクラスメートと会うのを楽しみにしていた。
それは、たった一年前の話。
今頃皆はどうしてるんだろう。
平凡だったけど、幸せだったあの頃。
二度と戻らないあの生活。本当ならば、自分だって今も学校に通っていたはずだったのに。
久弥(ひさや)が壊した、そして自分から捨てることを選んだあの日々――。
チリン
風鈴の音が耳に入る。
ゆっくりと振り返ると、ガラスの上を泳ぐ金魚達がクルクルと回っているのが目に入った。
ずっと同じところを、くるくると。
金魚はそこから抜け出すことが出来ず、クルクルと回り続ける。
チリチリと鳴り続ける音が頭の中でいっそう強く響く。
止まることなく回り続ける金魚から目を離すことが出来ない。
スウ、と血の気が引いていくのを感じた。
一度入ってしまったら、もう、出ることは出来ない――。
耐えられなくなり、窓に走り寄り、風鈴を掴んで床に叩きつけた。
ガシャンと音を立ててガラスが割れた。
身を引き裂かれた金魚達を見て、ハッと息を呑む。
胸に込みあがってきたものを喉の辺りで止め、静かに首を横に振った。
唯のガラスの破片になった風鈴を見ていられず、そっと部屋を出た。
ゆっくりと階段を上がると、小さくギシギシと音が鳴った。
自分の部屋に入り、冷房を入れる。換気の為に開けていた窓を閉め、床に座り込んだ。
膝を抱えて、項垂れる。
もし今、ここに峰弥(たかや)がいてくれたら――。
そんなことを一瞬考え、フッと嗤った。
峰弥の手を離したのは自分なのに、今更そんなことを考えるなんて。
駄目、今日は不安定だ。
やっぱり師杜と一緒にいれば良かった。
自嘲的な笑みを浮かべ、瞼を下ろした。
ただいまと言ったのに返事がなかった。
珍しいことだと思って中に入ると、リビングは蒸し暑かった。どうやら冷房を入れてなかったらしい。
両手いっぱいの荷物をソファに下ろし、電気をつけようとして手を止める。
床の上に転がっているもの。
それは原型を留めていなかったが、買ってきた師杜にはすぐに分かった。
明かりをつけ、足元に気をつけて近づいた。
しゃがんで割れた風鈴を見る。
身体を引き裂かれた金魚が師杜を見ていた。絵だと分かっていても、哀しいものがある。
でも、それ以上に師杜の胸を打ったのは、涼子の想いだった。
手を伸ばして大きな破片に触れる。
風鈴を割ったのは涼子だ。そして、その時の想いが伝わってくる。
全てを読み取ることはしなかったけれど、行き場のない悲しみは嫌でも感じてしまう。
「どうした?師杜」
先に自分の部屋に荷物を置いてきた久弥がリビングに顔を出した。しゃがんで動かない師杜を見て、近寄った。そして、そこにあるものを見て表情を変えた。
割れた風鈴と、師杜の辛そうな顔。
師杜が割ったとは思えない。だとすれば――。
「……涼子が……?」
尋ねると、師杜は無言で立ち上がった。そして廊下の方へ出て行く。しかし、すぐに戻ってきた。
その手には箒とちりとり。
「危ないから、片付けないと」
そして、ちりとりにガラスを収めていく。
「……涼子は何も悪くない」
ポツリと呟いた師杜に、久弥は唯頷くしか出来なかった。
床が綺麗になったところで、師杜はちりとりを久弥に渡した。
「俺が掃除機かけるから、これを外に」
「ああ」
久弥は言われる儘に部屋を出て行った。師杜ももう一度廊下に出て、箒を片付け、掃除機を持ってリビングに戻った。
目に見えないガラスの破片を吸い取って、掃除機を元に戻す。
その儘、階段を上がる。
いつもよりも、歩みが遅いのは気の所為じゃない。
涼子の部屋の前で小さく息を吐き、ノックをした。
どうぞ、と声がする。
起きていたのなら、掃除機の音も聞こえていたのだろう。
しかし、師杜はそ知らぬふりをしてドアを開けた。
ベッドに横になっている涼子を見つける。
「出来合いのおかず買ってきたから、夕飯にしよう」
声を掛けると、涼子がゆっくりと振り返った。
その瞳は腫れてはいなかったものの、生気が感じられなかった。
涼子は返事をせずに立ち上がった。そして部屋を出る。
階段を降りている時、ポツリと洩らした。
「わ…………ない……」
「え?」
師杜は立ち止まって聞き返したが、涼子は首を横に振って下りていった。
私は風鈴の金魚じゃない。
でも、抜けられない流れに入ってしまった金魚を見ていられなかったの。
だけど、皮肉ね。
無理に流れを止めようとした結果、金魚は死んでしまった。
金魚を生かそうと思ったら、流れを止めてはいけない。
ぐるぐる、ぐるぐると。
永遠に、回り続けるしかなくて。
その流れから出ることは叶わない。
永遠に。
そう、永遠に。
空調の利いていない部屋で汗ばんだ身体が寝返りをうった。
床に広がった長い髪が背に引き寄せられて行く。
サアッと風が吹いて、風鈴がチリンチリンと鳴った。
閉じていた瞳を薄らと開く。
窓際に吊るされた風鈴が音を立てながら揺れていた。
透明なガラスに描かれているのは金魚。鮮やかな色使いが夏らしい。
懐かしくなって、と師杜(かずと)が買ってきたのが一月前のこと。
あの頃は、外に出ると立っているのも嫌になるような暑さだった。
それに比べると、最近は幾分涼しい風が吹くようになった。夜も少しずつ涼しくなっていっている。
身体を起こしてカレンダーを見れば、もう八月も終わり。
なんだ、もうそんな時期だったんだ。
去年の今頃は、新学期の準備をしていた。夏休みの宿題をバッグに詰めて、クリーニングに出していた制服を元の位置に掛けて、始業式には必要なネクタイがあるのをチェックして。
ああ、もう夏休みが終わっちゃうんだ。
長い休みの名残を惜しみつつ、久々にクラスメートと会うのを楽しみにしていた。
それは、たった一年前の話。
今頃皆はどうしてるんだろう。
平凡だったけど、幸せだったあの頃。
二度と戻らないあの生活。本当ならば、自分だって今も学校に通っていたはずだったのに。
久弥(ひさや)が壊した、そして自分から捨てることを選んだあの日々――。
チリン
風鈴の音が耳に入る。
ゆっくりと振り返ると、ガラスの上を泳ぐ金魚達がクルクルと回っているのが目に入った。
ずっと同じところを、くるくると。
金魚はそこから抜け出すことが出来ず、クルクルと回り続ける。
チリチリと鳴り続ける音が頭の中でいっそう強く響く。
止まることなく回り続ける金魚から目を離すことが出来ない。
スウ、と血の気が引いていくのを感じた。
一度入ってしまったら、もう、出ることは出来ない――。
耐えられなくなり、窓に走り寄り、風鈴を掴んで床に叩きつけた。
ガシャンと音を立ててガラスが割れた。
身を引き裂かれた金魚達を見て、ハッと息を呑む。
胸に込みあがってきたものを喉の辺りで止め、静かに首を横に振った。
唯のガラスの破片になった風鈴を見ていられず、そっと部屋を出た。
ゆっくりと階段を上がると、小さくギシギシと音が鳴った。
自分の部屋に入り、冷房を入れる。換気の為に開けていた窓を閉め、床に座り込んだ。
膝を抱えて、項垂れる。
もし今、ここに峰弥(たかや)がいてくれたら――。
そんなことを一瞬考え、フッと嗤った。
峰弥の手を離したのは自分なのに、今更そんなことを考えるなんて。
駄目、今日は不安定だ。
やっぱり師杜と一緒にいれば良かった。
自嘲的な笑みを浮かべ、瞼を下ろした。
ただいまと言ったのに返事がなかった。
珍しいことだと思って中に入ると、リビングは蒸し暑かった。どうやら冷房を入れてなかったらしい。
両手いっぱいの荷物をソファに下ろし、電気をつけようとして手を止める。
床の上に転がっているもの。
それは原型を留めていなかったが、買ってきた師杜にはすぐに分かった。
明かりをつけ、足元に気をつけて近づいた。
しゃがんで割れた風鈴を見る。
身体を引き裂かれた金魚が師杜を見ていた。絵だと分かっていても、哀しいものがある。
でも、それ以上に師杜の胸を打ったのは、涼子の想いだった。
手を伸ばして大きな破片に触れる。
風鈴を割ったのは涼子だ。そして、その時の想いが伝わってくる。
全てを読み取ることはしなかったけれど、行き場のない悲しみは嫌でも感じてしまう。
「どうした?師杜」
先に自分の部屋に荷物を置いてきた久弥がリビングに顔を出した。しゃがんで動かない師杜を見て、近寄った。そして、そこにあるものを見て表情を変えた。
割れた風鈴と、師杜の辛そうな顔。
師杜が割ったとは思えない。だとすれば――。
「……涼子が……?」
尋ねると、師杜は無言で立ち上がった。そして廊下の方へ出て行く。しかし、すぐに戻ってきた。
その手には箒とちりとり。
「危ないから、片付けないと」
そして、ちりとりにガラスを収めていく。
「……涼子は何も悪くない」
ポツリと呟いた師杜に、久弥は唯頷くしか出来なかった。
床が綺麗になったところで、師杜はちりとりを久弥に渡した。
「俺が掃除機かけるから、これを外に」
「ああ」
久弥は言われる儘に部屋を出て行った。師杜ももう一度廊下に出て、箒を片付け、掃除機を持ってリビングに戻った。
目に見えないガラスの破片を吸い取って、掃除機を元に戻す。
その儘、階段を上がる。
いつもよりも、歩みが遅いのは気の所為じゃない。
涼子の部屋の前で小さく息を吐き、ノックをした。
どうぞ、と声がする。
起きていたのなら、掃除機の音も聞こえていたのだろう。
しかし、師杜はそ知らぬふりをしてドアを開けた。
ベッドに横になっている涼子を見つける。
「出来合いのおかず買ってきたから、夕飯にしよう」
声を掛けると、涼子がゆっくりと振り返った。
その瞳は腫れてはいなかったものの、生気が感じられなかった。
涼子は返事をせずに立ち上がった。そして部屋を出る。
階段を降りている時、ポツリと洩らした。
「わ…………ない……」
「え?」
師杜は立ち止まって聞き返したが、涼子は首を横に振って下りていった。
私は風鈴の金魚じゃない。
でも、抜けられない流れに入ってしまった金魚を見ていられなかったの。
だけど、皮肉ね。
無理に流れを止めようとした結果、金魚は死んでしまった。
金魚を生かそうと思ったら、流れを止めてはいけない。
ぐるぐる、ぐるぐると。
永遠に、回り続けるしかなくて。
その流れから出ることは叶わない。
永遠に。
そう、永遠に。





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